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第32回 重度の高次脳機能障害〜医学的に説明できない回復の記録「愛は脳を活性化する」〜

前回に続き、全国に約30万人いると言われる高次脳機能障害者の症例。今年5月、神経再生専門の国際医学雑誌Neural Regeneration Research(NRR)に発表された「ごしんじょう療法は重度外傷性脳損傷後の認知障害に有効か」(橋本高次脳機能研究所の橋本圭司医学博士と貴峰道の貴田晞照師の共著)で主役となった青年の劇的な回復の記録をリポートする。「奇跡の医療」(豊田正義著、幻冬舎刊)として紹介されたごしんじょう療法だが、青年の回復は、現代医学では説明がつかない点において際立っており、まさに「奇跡」としかいいようのないものである。

勉強もスポーツもよくできた

天宮拓也君(仮名、22歳)が両親と一緒に貴峰道に初めて来たのは平成22年8月11日。車椅子にのり、真っ黒いサングラスの左眼をさらに長髪で覆い隠し、うつむいた姿勢で拓也君はやってきた。19歳だった。
深刻な脳障害はひと目でわかった。だが、これまでの貴峰道取材の経験から、重篤な症状であればあるほど、ごしんじょう療法は必ず助けになると確信できた。当時、祈るような気持ちで拓也君を遠くから見守っていたことを今でも鮮明に覚えている

まず、拓也君を紹介しよう。
拓也君は中部地方の出身で、スポーツ万能、成績優秀。活発で、男女を問わず人気者だった。小さいころから打ちこんでいたサッカーでは抜群のセンスで活躍し、中学時代は地域のイレブンとして注目されたそうだ。高校は、サッカーのプレースタイルが好きな学校を選び、親元を離れ、県外の進学校に進んだ。
サッカー部に入部したものの、「将来のためにもっと勉強したい」と大志を抱くようになり、勉学に専念するようになった。そんな矢先だった。
平成20年4月18日。
「学校から自宅に電話があり、『拓也君がケガをされました。詳細はまだ分かりませんが、来ていただけませんか?』と言われ、様子が分からないまま、2、3泊できるような荷物を持って主人と新幹線に乗りました」(母親の和子さん)
ところが、病院にかけつけた時には、拓也君は頭部外傷による手術中であった。意識不明の大重体。その後、集中治療室に入るものの、命の危機にさらされていた。2、3日のつもりが半年間、和子さんは自宅に全く戻れない状況になったという。

当時の拓也君は16歳。事故は拓也君に100%落ち度はなく、第三者の過失で突如、棒状の物体が拓也君の左眼を直撃した。
拓也君の左大脳半球に広汎で深刻な脳挫傷を与えた。くも膜下出血、脳出血に加え、左中大脳動脈の損傷によって中大脳動脈部の大脳梗塞を引き起こした。重度の意識消失、昏睡状態は1カ月間続き、受傷70日後まで意識朦朧とした中度の意識レベルの状態が続いたという。
病院では、血腫除去用開頭術、外減圧術、中大脳動脈の血管縫合術が施され、医師から「このまま意識が戻らない可能性がある」とも言われた。和子さんは毎日、拓也君に付き添い、ただひらすらに回復を祈った。気の休まる時はなかったという。

「理解力不能、重度失語症」母親も分からない

平成20年6月末、拓也君はリハビリ病院に転院した。
重度の失語症で言葉を発することができず、理解力も重度障害。和子さんを含め家族や学校の先生、友だちのことも認識できなかった。運動機能の障害も深刻で、重い右片麻痺があり右手右足が動かない。加えて、左眼失明、右眼半盲。重度の高次脳機能障害を克服するため、理学療法、作業療法、言語療法からなる国内最高水準のリハビリテーションプログラムを開始した。
寝たきりの状態だったが、転院した初日に車椅子に移った。その後意識が戻り、経管栄養から普通食が食べられるようになった。またリハビリの成果により、短下肢装具をつけ、安全な室内であれば、杖歩行ができるまでに回復した。しかし拓也君はこの時、自分がどこにいるのかさえ分からず、母親の前で「家族はすでに死んで夜空の星になっている」と紙に絵を描いて示していたという。

平成21年1月に退院。病院から5分程度で通院できる場所にマンションの部屋を借りると、拓也君と和子さん、二人だけの生活が始まった。しかし、拓也君は和子さんに心を開こうとしない。和子さんの作った料理は食べない、一緒にエレベーターには乗らない、車椅子は押させない、近づくと車椅子に座ったまま左足で和子さんの足を蹴る、部屋から出ない、トイレから出ない、カラーボックスを手の甲で叩き壊す…など、反抗的で攻撃的な態度が続いた。
「一番辛かったこの時期に、いつでも手助けをしてくださったリハビリ病院には大変感謝しています。とくに極寒の2月にリハビリを終えて住まいに帰ろうと言っても、何時間も夜空を見上げて動かない拓也を住まいまで送ってくださったことは忘れられません」(和子さん)
拓也君は4月に入ると次第に精神的に安定していき、「いいね〜」と発語するようになった。「どこに行いたい?」ときくと、「原」と指で空中に書き、「原宿へ行きたい」という意思表示もできるようになったという。

受傷1年半を過ぎた平成21年10月15日、ようやく拓也君は和子さんのことを母親と認識していることが分かり、和子さんは「やっと少しほっとできた」という。
しかし、歩行中にバランスを崩して2度転倒したことで、歩くことの恐怖心が残り、歩行訓練もなかなか進展しない状態に。平成22年7月8日、「ありがとう」「さようなら」が片言でなんとか言えるようになったが、まだ状態は快方へ向かっているとは言い難い状況だった。
「ひらがなもカタカナも漢字も読めず、『あいうえお』の『あ』の読み方を教え、リンゴの絵を見せては『これがリンゴ』と繰り返し教える毎日でした。道で拓也と同じ年ごろの若者を見ると本当に悔しい悲しい思いがしました」と当時のことを振り返る和子さん。心に広がる虚しさはどれほど深いものだっただろうか。
「受傷後1年半くらいから、はり治療や整体などにも通うようになっていましたが、拓也にどんな治療がプラスになるのかが確認したく、大阪のカウンセラーの清島先生に相談してみたんです」(和子さん)
夫婦でカウンセリングを受けると、貴峰道を紹介された。
「ごしんじょう療法をやってみたらどうですか?」
金の棒で擦るという治療がどの程度の効果か想像もできなかったが、「信頼している清島先生の勧めであり、東京でリハビリ通院のために借りている家が代々木上原に近いことから、貴峰道に行ってみることにしたのです」と和子さんはいう。

ごしんじょうで改善するも入院で後退、そして震災

平成22年8月11日、受傷から約2年4カ月。拓也君が貴峰道にやってきた様子は冒頭で触れた通りだ。拓也君は下を向き、声をかけてもぼんやりとした反応しかかえってこない状態だった。
拓也君は治療ベッドに横になれないため、車椅子に座ったまま治療を受けた。この日、和子さんが書いた「症状と診療経過」には、「右マヒのため歩行が困難。右手右足の動きがうまくできない。今年7月10日に5回目のけいれんを起こした。話すことはできない。排便、排尿がうまくできない。左目失明のため視野が狭く障害物に対する恐怖心が大きい」とあり、リハビリを2年以上続けても深刻な脳障害を抱えていたことが分かる。恐怖心が非常に大きく、怖くて貴峰道のトイレも一人で行けないほどだったという。
だが、月3回のペースで貴峰道に通っているうち、事故後初めて、明確に回復の光が見えてきた。表情が明るくなり、理解力が高まった。自分の意思を伝えようと積極的になった。
「貴峰道に通うようになって、まず変化したのは発語が増えたことです。すぐに『みんな良いねえ』『怖い』『誰もいない』など気持ちや状況を伝えられるようになりました。10月には、『ここはみんな優しい』『ボクは幸せ』と言うようになり、突然増えてきた拓也の発語に、驚いたものです」(和子さん)
11月、ふと拓也君が和子さんに言った。
「本当に、ありがとう」
和子さんが「拓也がよくなってくれれば、母さんはうれしいよ」と受け応えると、「ボクも」と拓也君が返した。事故後、初めて会話によって母子のコミュニケーションが成立した瞬間だった。これまでの経過からは考えられない飛躍的進歩であり、和子さんはごしんじょう療法に確かな治療効果を実感したという。
しかし、貴峰道で計12回治療を受けた後、拓也君は再入院することになった。そのために貴峰道の治療は一時中断。結局、拓也君の表情も反応も、貴峰道に行く前の状態まで後退してしまう。
「一体いつまで私たちは地獄から抜け出せないのだろうか」。和子さんは絶望的な思いで退院したという。
退院後、少し休みを取り、再びリハビリ通院を続けたが、希望の見えない毎日に逆戻り。和子さんも拓也君も母子一緒にうつ状態になったという。気持ちの落ち込みから、退院後は貴峰道の治療も月1回やっと行くような状態になっていた。

そんな時だった。
平成23年3月11日、東日本大震災発生
そして4月12日、拓也君は自宅で6回目のけいれん発作
発作は重く、約3分間そして再び3分間意識を失った。「受傷後、抗てんかん薬を欠かさず飲ませていたのに…」。和子さんのショックは大きかった。
4月、拓也君を連れて貴峰道に行き、和子さんは貴田晞照師に告げた。
「地震のこと、放射能のこと、そして拓也のことで本当に疲れてしまいました。拓也を連れて東京から自宅に帰ろうと思います」
「それでは自宅へ帰るまで、毎日貴峰道に治療に来たらいかがですか? 拓也君の邪気の量はものすごいから、間隔をあけずにごしんじょう治療を受ければ、効果はもっと実感できます。子供の料金でいいですから」
和子さんは貴田師の言葉を受け、試しに週2回のペースで貴峰道に通うことを決めた。

初めて言えた…「母さん」そして「ボクはがんばる」!

平成23年4月14、16、20、22、27、30日…
拓也君のごしんじょう治療が週2回になると、貴田師の言葉通り、拓也君はぐんぐん元気になり、表情も反応も理解力もみるみる良くなっていった。
和子さんの4月下旬の記録にも「理解力が増し、声掛けに対する反応が早くなってきた。リハビリ病院のスタッフも皆驚いている」と記されている通り、誰が見ても明らかな変化だった。
そして週2回の治療を継続している平成23年5月18日。貴峰道での治療中、その場に居合わせた面々が歓喜する出来事が起こる。
「…母さん」
拓也君が受傷後初めて、「母さん」という言葉を発したのだ。事後から3年1カ月、どうしても出なかった言葉。それが治療中、初めて拓也君の声になった。
「貴田先生や貴峰道のお弟子さんたちがものすごく感動していましたが、何より拓也自身が自分の言葉に驚いていました。私も驚き感動しましたが、同時に、もっと良くなるのではないかという期待が膨らむ気持ちでした」(和子さん)

わずか1カ月前まで拓也君は東京を離れる予定だった。その当時、和子さんは病院で、拓也君の「後遺障害診断書」を作成してもらっている。
各部位の後遺障害の内容として、「重度の右片麻痺(右上下肢機能全廃)、杖・装具なしでは歩行不可。右眼半盲、左眼失明。外傷性てんかんはコントロール困難。重度の失語症、単語レベルの発語。理解力は重度障害」と書かれ、平成23年4月20日の日付で医学的に症状固定されているのである。
ところが拓也君は、症状固定されたその時期から週2回のごしんじょう治療を始めた。そして「母さん」と発語して周囲を驚かした後も、回復のスピードが急速に増し、意欲が向上。言葉がどんどん出るようになった。
「マヒしている右手、右腕に対して、自ら積極的にリハビリするように変化してきた。歩けるようになってからは転倒を2度繰り返し、とても怖がっていたが、前向きに考えられるようになり『ボクはがんばる』とよく言うようになった」(和子さんの記録)
和子さんの記録によれば、平成23年5月20日には「フリーハンドで50メートル陸橋を歩いた」。5月22日には、「東京・初台のオペラシティの中を4点杖で70メートル歩くことができた」。5月29日、「お笑いのテレビを見て笑い、事故前に聴いていた曲や今の流行曲をハミングする」など、理解力や音感、記憶力などさまざまな脳機能の向上が顕著に現れてきた。そして6月5日、「カラオケデビュー。知人とカラオケへ行き、4時間楽しむ」。6月7日には、「最近さまざまな場所でも杖歩行練習を受け入れるようになっている」と劇的に意欲向上してきた。
日々、これほど急速な回復を目の当たりにする和子さんに、もう落ち込むひまはなかった。「すごいね、拓也」と日に何度も声をかけ、拓也君を励まし続けたという。
平成23年6月、拓也君の20歳の誕生日に、拓也君は宣言した。
「ボク、毎日、貴峰道に行く!」
和子さんは自宅に帰る予定を延期。誕生日の翌日から、拓也君は毎日貴峰道でごしんじょう治療を受けるようになった。

脳機能の回復でリハビリも奏効

毎日貴峰道に通うようになってからの拓也君の回復は、とにかく目覚ましい。
貴峰道では毎日治療後、貴田師と一緒に膝を少し曲げるだけのスクワットを始めたが、日に日に回数が増え、次第に中腰の姿勢も深くなっていった。ごしんじょう療法で脳のさまざまな機能が回復していることは明らかで、リハビリの効果も倍加。以下、和子さんの記録を抜粋する。

平成23年6月17日。今年2月までの入院中には度々「無理」という言葉を使っていたが、最近は全く言わない。最近は「がんばるよ」をよく使っている。「父さん」と言えるようになった。

6月23日。膝を軽く曲げる程度だが右足のみのスクワットを貴田先生とやった。最近はほとんどの会話の言葉が理解できていると感じる。

6月29日。リハビリ病院の先生に「ボクはまだまだだけど、がんばるよ」と伝え、びっくりされる。

7月5日。「ボクは天宮拓也です」と発語。

7月7日。貴峰道で、装具を着けずに杖歩行を初めて行った。

7月11日。1〜20まではっきりと数えられた。

7月13日。拓也が貴田先生に麻痺で固まっている右手首を見せながら「先生、どうしたらいいの?」と伝え、肩、てのひらをしっかり施術していただき、右手首が曲がるようになった。拓也はとても喜ぶ。

7月18日。4月からリハビリ病院に来ている方に「この1カ月ですごく良くなっているね」と言われた。

7月23日。右手首がぐにゃぐにゃに曲がるようになった(手首のごしんじょう治療は7回目)。

7月28日。右足の指を上げたり、下げたり、指示通りできるようになった。「だからオレが言ったやん」「まだ今は分からん」と発語。

8月6日。立ち姿がきれいになってきた。

9月1日。貴峰道で、素足でフリーハンドで10歩歩いた。

9月3日。今年3月までは言葉で伝えようとすると理解できず、「紙に書いて」と指示していたので、紙に単語を書いて伝えていたが、最近はこちらの言葉を文章で聞き取り理解するようになったので「書いてほしい」と指示しなくなった。

9月9日。病院のスタッフが青森出身だと分かると、「3月11日の震災は大丈夫だったか」と相手を心配していた。話を聞いて、理解する力がどんどんアップしていることがよく分かる。

9月20日。貴峰道の玄関から初めて杖歩行して入室し、椅子に座って治療を受けた。

10月10日。理学療法士から「右足首が動くようになっているし、足が良くなっている」とびっくりされた。

11月20日。「拓也君、理解力はもう完璧だね」と貴田先生に言われ、「前は、ずっとできなかったけど、今は、分かる。余裕だよ」と発語。

12月9日。完全失明している左眼の治療を貴田先生から受けている時、「見える」「最高」「きれい」「かっこいい」と言った。

ごしんじょう療法 そして平成23年12月24日のクリスマスイブ。
この日、拓也君は貴峰道で、貴峰道のFAX用紙に、絵と文字で貴田師にメッセージを伝えた。クリスマスツリーに、ごしんじょう療法で重要な邪気をはらう手を描き、「貴峰道 貴田晞照 愛」と文字を書いたものだ(写真参照)。
「貴峰道 貴田晞照先生」という文字はその4日前の12月20日、拓也君が自ら初めて書いてみせた。難しい「晞照」の文字は本を見ながら書いたものの、その場で記憶し、その後は何も見ずにいつでも書けるようになったという。
貴峰道では、拓也君の回復は貴峰道の患者さんたちの喜びとなり、病に苦しむ人たちの励みになっていた。拓也君の「愛」のメッセージは、貴峰道の待合室に置かれ、涙する人もいたという。

以上、拓也君が毎日ごしんじょう治療を続けてから半年間の記録だけ見ても、医学的にはあり得ないものである。なにしろ平成23年4月20日、受傷3年経過し「重度の失語症、理解力は重度障害、右上下肢機能全廃、杖・装具なしでは歩行不可。左目失明」と症状固定の診断を受けた状態より、一段と脳機能が向上しているのである。

「ごしんじょう療法師」になった!

続く平成24年の拓也君の回復ぶりも、同じ高次脳機能障害に苦しむ人にとって、にわかには信じられないものだろう。
平成24年3月、拓也君は自力で治療ベッドに横たわることができるようになり、ごしんじょう療法の治療効果がさらに加速した。歩行もスムーズになり、意思疎通が完璧にできるまで進歩。自分でごしんじょうを持ち、自分自身を治療するようにもなった。4月には、治療中に手から出ていく邪気を実感できるようになり、5月にはごしんじょう療法を覚えたいという意思を伝え、貴田師の身体を施術させてもらいながら、「先生が痛くなったら、ボクがやってあげるね」と言うほどになった。
6月には横断歩道を信号が青のうちに杖を使って自力で渡りきることもできるようになった。そして7月、自ら「歩いて地下鉄に乗る」と宣言し、杖を使って階段やホームを自力で歩き、電車に乗るという一連の動作を一人でやってみせた。一人で貴峰道のトイレも行けなかったほど大きかった恐怖心は消え、いつの間にか勇気ある青年になっていた。
さらにそのころ、「完全失明で回復の見込みはない」と診断されていた左眼が、「常に見えている」ことが拓也君の言葉で判明。すでに平成23年12月の治療中に拓也君は「見える」と言っていたが、常に見えている、すなわち視力が回復していることが分かったのだ。視神経の重大な損傷で回復不能と言われた左眼が見えるようになったことは、全く持って医学的には説明がつかないことである。
10月2日、拓也君専用のごしんじょうを和子さんから渡されると、貴峰道で治療を受けるだけでなく、自ら望んで治療の勉強をするようになった。日に日に勉強に熱が入り、10月20日、拓也君は貴峰道から、「ごしんじょう療法師」の認定書を授与されたのである。拓也君の中に、治療家として社会復帰し、自立を目指すという自覚はここではっきりと芽生えたであろう。

毎年12月に、貴田師は東京・代々木にある東京医療専門学校の教員養成科の特別講義に講師として招かれるが、その授業に、平成24年12月、拓也君自ら「参加したい」と申告し、学校側から特別に許可が下りて参加。教室の一番後ろの席で授業を聞いていた拓也君が講義の後半、自らの意思で杖を使って教壇に立つ貴田師の隣まで歩いて行き、鍼灸学校の教員を目指す鍼灸師たちに向かい、真っ直ぐに話しかけた。
「ごしんじょう、本当にすごいよ。本当だよ」
自分がごしんじょうでどれほどまでに回復したか、皆の前でスクワットをして見せると、生徒たちからは拍手が起こった。拓也君の気迫に満ちたメッセージが教室を包み込んだ瞬間だった。
「拓也、すごい…。事故前までは、確かに活発でしたが、率先してみんなの前で話すような子ではありませんでした。ごしんじょうをするようになって、明るく、誰に対しても優しく、恩を受けた人に対して自ら感謝の気持ちや敬意を持ち、恐怖心が消えて勇敢にたくましくなりました。とくに優しさや勇気、もともと拓也が持っていた良い面だけが引き出されている感じがします」。拓也君を大きく包む和子さんの感想は、邪気を取り除くごしんじょう療法の効果が「脳」だけでなく「心」まで影響していることを説明しているだろう。

高次脳機能障害の人が、さらに驚くだろう事実がある。
これほどまでに劇的に脳機能が回復した拓也君だが、脳の状態に変化があるのかを確かめるため、平成24年4月、21歳の時にCT検査をした。すると、その画像は、事故直後とほとんど変わらなかった。すなわち、画像では、依然、寝たきりになってもおかしくないほどの脳の損傷があるのだ。それを確かめた橋本高次脳機能研究所の橋本圭司医学博士は、新しい脳機能回復の概念が必要だとして、貴田師とともに論文「ごしんじょう療法は重度外傷性脳損傷後の認知障害に有効か」を国際神経再生医学雑誌NRRに発表したのであった。
「高次脳機能障害の特徴はモチベーションが上がらないことや感情のコントロールができないことですが、拓也君のモチベーションは健常な脳の青年と比べても高く、感情の制御もできています。非常に生き生きとして、かつ穏やかな表情をしているわけですが、リハビリで回復した高次脳機能障害者の場合でも、なかなかあのような表情にはなりません」と、高次脳機能障害の専門家、橋本医師にしても、拓也君の回復は医学的側面からだけでは説明がつかないのである。

「ボクじゃない。ごしんじょうがすごい」

貴峰道で「拓也君、良くなったね。すごいよ」と他の患者が声をかけると、拓也君は必ず手を貴田師に向けて言う。
「ボクはすごくない。全部、先生のおかげ」
それを聞いた貴田師は、「まずはここを紹介してくれた清島先生、そして何よりお母さんだよ。それと気の力をいただいている大峯山」。
しかし拓也君は言う。
「そうだけど、わかるけど、先生が一番すごい。本当にありがとう」
この会話は、毎日毎日、日に何度も繰り返された。拓也君の持つ「報恩感謝」の清らかな精神に触れ、居合わせた人たちは頭が下がる思いがするのである。だから拓也君は皆から愛される。

ごしんじょう療法師を目指す拓也君に初めて治療をしてもらったのが田村初音さん(仮名、80歳)だ。いわば、田村さんは拓也君の患者、第一号である。
田村さんは平成24年7月ごろから、難病の家族の付き添いで毎週2回、貴峰道に来ていた。家族は、治療方法のない進行性の難病。ごしんじょう治療で改善している事実に驚いていたが、田村さん自身はいつも待合室で下を向いていた。田村さんは平成23年12月に突然耳が聞こえにくくなり、耳鼻科に通院治療するも治らず、その後病院で「突発性難聴で一生治らない」と診断された。両耳ともほとんど聞こえない状態だったため、待合室では人から話しかけられないよう、うつむいていたのだという。
平成24年8月ごろ、拓也君はそんな田村さんを心配し、「大丈夫?」と話しかけ、田村さんの右肩をごしんじょう治療した。拓也君には、田村さんの肩に邪気が溜まっていることが分かったからだ。待合室で30分程度の治療だったが、田村さんは帰りの車の中で「あら、こちらの肩が軽いわ」と独り言を言い、気持ちが明るくなったという。
拓也君は田村さんの耳が聞こえないことを知り、待合室で会うわずかの時間、田村さんの耳のまわりを治療するようになった。すると10月ごろ、田村さんは人の声がなんとなく聞こえることに気づいた。11月ごろには明確に耳が聞こえるようになっていたという。
「それまではバスに乗っても、停留所のアナウンスが聞こえないため、いつも停留所の画面が見える運転手席の後ろに立っていたのですが、11月ごろには雑踏の中のアナウンスもちゃんと聞こえるようになり、後部座席に安心して座っていられるようになったんです。前の年は全く聞こえなかったのに、年末の紅白歌合戦も通常のボリュームで楽しむことができました。『一生治らない』との医師の診断後、補聴器のパンフレットを大量に取り寄せていましたが、今では聴力が完全に戻り、補聴器は必要なくなりました。拓也君の治療で手から邪気が出るのがビリビリジンジン感じ、難聴が治り、長年の肩こりもなくなりました。拓也君はいつも『どこが悪い?』って聞いてくれて、実に丁寧にひたむきに治療してくれるのですが、拓也君自身が重度の脳障害があるのに、すばらしいと思います。本当に拓也君には感謝でいっぱいです」と田村さん。
しかしその横で、いつもの通り、拓也君は言う。
「ボクじゃないよ、ごしんじょうだよ」
「そうだね。ごしんじょうと拓也君、ありがとう」

実は田村さんは、総合病院の看護師を30年間務めた医療現場のプロでもある。それだけに、「一生治らない」と宣告された難聴が、脳障害を持っている拓也君が施すごしんじょう治療で完治したことや邪気を取り除くことであらゆる病を改善させている事実に、驚きを隠せない。
「ごしんじょう療法には本当に驚きます。まだ高次脳機能障害で治療中の拓也君がごしんじょう治療し、現代医学で治せない私の難聴を治すことができるなんて、考えられないことです。私も難病の家族も、ごしんじょう治療で性格も明るくなりました。邪気を取ると、難病が治り、心まで軽くなる。そんな治療、ないですよね。私が看護師をしている時に、この治療法を知っていれば…とつくづく思います。拓也君は治療家を目指して、日に日にたくまししくなっていると感じます。立派な治療家になってほしいと心から願います」(田村さん)

「前を見て!」治療家として自立へ

貴峰道に毎日通うようになってから2年2カ月。拓也君に、いよいよ旅立ちの日がやってきた。平成25年9月、拓也君と和子さんは東京を離れ、中部地方の自宅へ帰ることになったのだ。家庭の事情もあり、自宅で治療家として自立する準備を始めるという。
8月28日、自立しようとする拓也君を貴峰道でインタビューした。まだスラスラ言葉は出ないが、拓也君はひとつひとつの質問に、絞り出すように丁寧に答えてくれた。以下、一問一答である(カッコ内は拓也君のジェスチャーを言語化、※は注釈)。

ごしんじょう療法の治療効果を実感できるようになったのはいつごろ?

「ボク、最初はごしんじょうのこと、ぜんぜん分からなかった。だから、最初、貴峰道に来て、ちょっと良くなって、もっと良くなろうと思って、病院に行った(※ごしんじょうを中断し、リハビリ病院に入院した時のこと)。でも、良くならなかった。毎日、ここにきたら、どんどんどんどん良くなった。それで、ごしんじょうがすごいのが分かった。だから母さん、すごいよ。毎日、毎日、僕をここに連れてきた。(和子さんの方を見て)母さん、ありがとう」

最初は、いつも下を向いていたよね。

「前は、(周りの人の言うことが)あまり分からなかった。でも今は、分かる。今は、(胸を張って)前を見て! ボク、がんばる」

もう理解力もコミュニケーションも完璧だよ。

「やっとね。でも、まだまだ。もっともっとだよ」

本当によくがんばったね。

「ボクじゃない。(手を貴田師に向けて)全部、先生(のおかげ)。あと、ごしんじょうがすごい」

ごしんじょう療法は何がすごいですか。

「ごしんじょうすると、痛いのが、『あれっ? 何で?』って(いうように)、痛くなくなる。あと、ボクだけじゃない。みんなが(ごしんじょう療法を実践)できる。あと、ごしんじょうすると、女の人はきれいになる。男は強くなる。やさしくなる。本当にごしんじょう、すごいよ。みんな、まだ分からない。なんで(わからないの)かな? でも、あと少しで、みんな、(ごしんじょう療法のすごさが)分かる。ボク、それが分かる」

本当によく言葉が出るようになったけど、一番好きな言葉は?

「愛。(ごしんじょうを見せて)これも、愛。あと、愛はいろいろあるけど、全部の愛が好き」

これからの目標は?

「2つある。ボクが、(左手で持ったごしんじょうで自分の右腕を擦りながら)もっとごしんじょうやって、良くなる。もっともっと。あとは、みんなに(ごしんじょうを)やってあげて、みんなが『あれ?痛くない。あー最高!』ってなる(ように治療していきたい)。だから、ボク、まだまだだから、毎月1回、(ごしんじょう治療の勉強のしぐさをしてみせながら)ここに来るよ。ボクは前は勉強が1番だった。でも今は、(ごしんじょうを掲げて)これ。まだ22歳。だからボク、がんばるよ」

高次脳機能障害で「理解力は重度障害、重度失語症」と診断された拓也君だが、もう理解力、コミュニケーション能力は完璧である。思考力、記憶力も大変優れ、精神性は極めて高いとさえ思う。

母の献身的支えで、障害者の"希望の星"に

和子さんにも話をきいた。
「事故から5年4カ月間、東京で治療できたことは、拓也にとって最高の環境でした。拓也の友人たちが千羽鶴を作り回復を祈ってくれたことや、リハビリ病院の先生や理学療法士、作業療法士、言語療法士、そしてヘルパーさんたちの手厚いサポートに、心から感謝しています。中でも貴田先生との出会いは拓也の人生を大きく切り拓くものになりました。言葉に尽くせぬほどの愛情を受け、貴田先生直々の治療を受けさせていただき、さらには治療を学ばせていただき、貴田先生にはどのようにお礼を申し上げていいのやら言葉に表すこともできません」
和子さんが拓也君との闘病を振り返った時、ごしんじょう療法は、奇跡的回復の機軸となる。
「辛いことも含め、拓也と私のことを、この取材でお話ししようと思ったのは、私たちだけでなく、同じように高次脳機能障害で苦しんでいる患者とそのご家族の方が、ごしんじょう療法で救われてほしいと心から思っているからです。ごしんじょうを信じて通い続けた結果、拓也の脳が回復し、恐怖心も消え、言葉や運動機能も大変良くなりました。事故後は拓也の社会復帰など考えたこともありませんでしたが、今では拓也が『ごしんじょうはすごいよ』と目を輝かせながら語れるほどになりました。信じられないことです。辛い時期はありましたが、私自身もごしんじょうによって心身の健康が保たれ、今まで元気にやってこられたと思っています。本当に有難いことです」
拓也君をいつも献身的に支えてきた和子さんの母性。なんとか回復させようとする強い信念。そして行動力。誰もがその姿に心打たれるが、和子さんにとって今、社会復帰を目指す拓也君のサポートは大きな喜びであるという。
「障害がありながら、前向きで、自分のやりたいことを目指す拓也を私はどこまでも応援します。しかも、そのやりたいことが、人のためになろうとすることなのですから、本当に立派だと思います。事故後ずっと拓也を支えてきましたが、今は精神的に拓也に支えられています。拓也の将来がごしんじょうによって花開くのが本当に楽しみです」

今年7月のことだった。和子さんの誕生日、家で拓也君がふと口にした。
「おめでとう!」
意表を突く言葉に、和子さんは拓也君に背中を向け、思わず肩を震わせて泣いた。心を鎮めてから、「拓也、お母さんの誕生日に『おめでとう』なんて言うの、初めてだね」と言うと、拓也君は「今までは言えなかった」と言ったという。
「男の子ですし、これまで小中高と誕生日を祝われたことはありませんでした。事故後失語症になってからは、『素直になれない』のと『言いたくても現実に言えなかった』の両方だと思います」
さらに今年8月24日、拓也君からもう一つ、うれしい言葉をもらった。
貴峰道からの帰り道、「いろいろあったけど、5年4カ月、がんばってきてよかったね」と拓也君に話しかけながら帰宅すると、ソファに腰を下ろした拓也君が手を差し出し、2人で握手をした。その時、拓也君が初めて面と向かって「大好きだよ」と言ったという。
「拓也はこれまで、貴田先生に対しては毎日のように感謝の言葉とともに『先生、大好き』と言っていましたが、その言葉を初めて私に向けてくれたんです。拓也から『おめでとう』とか『大好き』と言われ、この上ない幸せを感じてしまい、ドラマだったらもう最終回で終わっちゃうんじゃないかと不安になるくらいの気持ちになりました」(和子さん)
物語はまだまだ続き、拓也君はきっと、障害者たちの"希望の星"となるだろう。拓也君の自立へのドラマはいま、始まったばかりである。

「愛は脳を活性化する」

それにしてもなぜ、拓也君の脳機能はごしんじょう療法で劇的に改善しているのだろうか。
ごしんじょう療法の研究に着手していた脳科学者、松本元理学博士(1940-2003)は、理化学研究所脳科学総合研究センター・グループディレクターを務め、脳の情報処理能力を研究していた世界的脳科学者である。松本博士は、著書「愛は脳を活性化する」(岩波書店)の中で、次のように述べる。
「脳にとっての情報とは、脳の活性に影響する事柄であり、脳の活性に最も支配的な情報は、『情』に関するもの。そして『情』の中で人間の脳の活性をもっとも促すのが『愛』という情報である」「愛は脳を活性化し、意欲を向上させて脳を育てる。脳にとっての最大の価値、そして活性化のもとは、関係欲求の充実であり、それは愛という概念で表現されるものなのである」
ならば脳を活性化する「愛」とは何か。
家族の愛が大きくても病が回復しない例は多い。したがって、貴田師は、脳を活性化する「愛」とは、「愛される」ことよりも、「愛すること」すなわち「利他の心」を意味している、と考えている。拓也君の劇的な回復について、「病に苦しむ人のためになりたいという利他の心が拓也君に生じたことで、自らの脳をより活性化したのです」と貴田師はいう。
たしかに、松本博士の「愛は脳を活性化する」という理論と「ごしんじょうは愛だよ」という拓也君の言葉は、そのことを端的に言い表しているだろう。

ただ拓也君の場合、依然として脳に重大な損傷がある。つまり言語、理解力、視力、運動能力にかかる広汎な脳の神経細胞は死んでしまっているのに、新たに脳機能が働いている。この点において、貴田師は「拓也君の場合、気の力で遺伝子の引き金が引かれ、スイッチが入り、脳神経が新しく構築されていると考えています」と回復のメカニズムの仮説を立てている。
「ごしんじょうの気の力で遺伝子の引き金が引かれ、脳神経が新しく構築されている」
この革新的な仮説について、遺伝子の専門家はどう考えるだろうか。
遺伝子研究に詳しいウイメンズクリニック南青山院長で東京産婦人科医会常務理事、小杉好紀医学博士に話を聞いたところ、「貴田先生の考えには賛同できる」としながら、遺伝子の視点から、拓也君がごしんじょう療法によって、本来持っている良い面ばかりが引き出されていることの推論も加えた。
小杉医師は「あくまで憶測ですが」と前置きしたうえで、次のように話す。
「かつて遺伝子は利己的なもので、自己の生存と繁殖率を高めるために人生があると信じられていた時代もあります。しかし現在、進化医学という領域では、遺伝子は利他的なもので、実は人という生物は自己を犠牲にしてでも他者のために振る舞う生物なのではないかと言われています。もし人間は本来、社会的で利他的な生物であり、人のために何かをしたいというのが生命の正しい方向であるならば、人の健康を祈ることや施術を施すことはとても理にかなっている行為です。拓也君がごしんじょう療法を受け続けていることで、気の力で遺伝子の引き金が引かれ、脳神経が新しく構築されたとすれば、遺伝子が本来持っている利他的なパワーが最大化されてもおかしくないと思います」
先端の遺伝子研究の視点から拓也君の回復に迫る小杉医師の推論は、極めて興味深い。

ごしんじょう療法でなぜ、重度の損傷をうけた拓也君の脳が活性化し、本来持っている良い面が引き出されているのか。それは、「ごしんじょうが遺伝子の引き金を引く」という貴田師の仮説と「気の力で遺伝子が本来持っている利他的なパワーが最大化されている」という小杉医師の推論で説明できると思う。全国に30万人とされる高次脳機能障害者のため、一刻も早く科学的解明がなされることを切に願う。

平成25年9月27日
久保田正子