世界保健機関(WHO)傘下の国際がん研究機関(IARC)が「携帯電話の電磁波が、(コーヒーやクロロフォルムと同程度に)がん発症の原因となる可能性がある」と発表したのは、5月31日のことだった。日本の新聞やテレビなどでも大きく報じられたから、これまで「携帯電話は安全だ」と信じて疑わなかった人たちにとっては衝撃だったに違いない。しかし、欧米を中心に携帯電磁波の健康影響問題を長く取材してきた私からすれば、WHOの決断はいささか遅きに失したと思う。
というのも、IARCは昨年5月、携帯電話使用と脳腫瘍の関連を調査するために世界13カ国で実施した「インターフォン国際症例対象研究(インターフォン研究)」の最終報告書を発表したが、そこではまるで逆の見解が語られていたからだ。
「累積使用時間が1640時間以上(1日30分で10年以上)の使用者の神経膠腫(脳腫瘍の一種)の発症リスクが、非使用者の1.4倍」
というデータは示したものの、報告書は「統計的なバイアスや誤差などがあり、全体としては携帯電話使用と脳腫瘍の関連はみられなかった」と結論づけた。それを受けて、日本のメディアは<携帯電話使用と発がん性の関連性確認できず、WHOが大規模調査>と報道。業界団体である電波産業会も<これまでと同様に、携帯電話の電波によって健康影響が生じることはなく、安心して携帯電話をご利用いただけます>と宣言して、携帯電話の「安全性」は揺るぎないものに見えた。
だが、インターフォン研究の複数の調査結果には、1640時間以上の使用者の神経膠腫リスクが通常の1.82倍に上るという更に高い数字を示すデータも含まれていた。ところがIARCはなぜかこれを本論文に含めず、付録として「国際疫学ジャーナル」誌に掲載したのである。
日本ではほとんど報じられなかったが、実は、欧米では早くから携帯電磁波の「健康への影響」が指摘されてきた。
電子レンジで応用されているように、マイクロ波にモノを"加熱"する作用があるのは以前から知られており、人体が一定の強さ以上の電磁波に触れないように国際的な基準が設けられている。しかし、最近多くの研究者や医師が懸念しているのは、マイクロ波による"非熱作用"がもたらす健康影響である。
たとえばアメリカでは、著名人の脳腫瘍と携帯電話との関連が注目されてきた。09年8月に亡くなったエドワード・ケネディ上院議員は携帯のヘビーユーザーだったことから、メディアは<ケネディ議員の脳腫瘍は携帯電話が原因か>(「サンフランシスコ・イグザミナー」紙09年8月26日付)といった見出しでその死を報じた。
<ケネディ議員の死に哀悼を捧げる意味でも、私たちはこの問題についてオープンな議論を行なうべきである。(中略)近い将来、似たようなケースをたくさん目にすることになるかもしれないのだから>(同)
"クッキング・ザ・ブレイン"
O・J・シンプソン裁判で無罪を勝ち取った高名な弁護士ジョニー・コクランが05年に脳腫瘍で亡くなった時、主治医のキース・ブラック医師がその原因として疑ったのも携帯電話だった。コクラン弁護士も、携帯電話が普及し始めた頃から携帯を使い始め、毎日数時間以上話すヘビーユーザーだった。この"疑惑"は、CNNの人気番組『ラリー・キング・ライブ』でも2回に亘って取り上げられ、全米の話題になった。ロサンゼルスのシダース・サイナイ病院で脳外科部長を務めるブラック医師はこの25年間、数えきれないほどの脳腫瘍患者を診てきたが、携帯電話との関連を疑われるケースは決して少なくないという。そして彼は取材した私にこう言い切った。
「電子レンジと同じマイクロ波を発する携帯電話を頭に押し当てるのは、基本的に"脳を料理する(クッキング・ザ・ブレイン)"のと同じことなのです。だから、通話する時はイヤホンマイクやスピーカーフォンなどを使って、電磁波を防護すべきです」
07年12月、イスラエルのテルアビブ大学公衆衛生学部の研究チームは、「携帯電話を頻繁にかつ長時間使用するヘビーユーザーの耳下腺腫瘍の発症リスクが、約1.5倍になった」と発表した。唾液の分泌をつかさどる耳下腺はちょうど携帯電話を押し当てる部分で、電磁波を多く浴びる部位だ。この調査を率いたシーガル・サデツキー博士は当時の取材に、「携帯電話が人体に無害だと言い切れる時期は過ぎました」と答えた。私がWHOの対応は遅すぎると感じたのは、数年前からこうした発言を繰り返し聞いていたからだ。
08年9月にはスウェーデンのオレブロ大学病院のレナート・ハーデル博士が、「10年以上の長期使用者の神経膠腫のリスクが2.7倍、聴神経腫が2.9倍になった」との調査結果を発表し、世界の関係者に衝撃を与えた。聴神経腫は良性腫瘍ではあるが、悪化すると聴力を失うケースもある怖い病気である。
ハーデル博士の調査ではまた、「20歳前に携帯電話を使い始めた人の神経膠腫の発症リスクは5.2倍、聴神経腫は5倍になった」という結果も示された。大人に較べて「子供は電磁波に弱い」とは、海外では15年ぐらい前から言われてきたことだ。頭蓋骨や皮膚が大人より薄いため電磁波を吸収しやすく、また脳神経も発達過程にあるため、発がん性物質の影響を受けやすいのだ。さらに、08年には東北大学の物理学者らが、携帯電話のマイクロ波がエレベータ内などの閉じた環境で反射し、場合によっては1000倍ほどに増幅される可能性を論文で示している。福島原発事故以来、我が子の放射線被害を過剰に心配する親は後を絶たない。だが、本当に子供の未来を思うなら、より身近な携帯電磁波を心配するべきではないか?
冷戦下の"秘密兵器"
こうしたマイクロ波の非熱作用についてはまだ解明されていない部分が多いが、その健康被害については、すでに多くの"実例"が報告されている。
マイクロ波は携帯電話や電子レンジだけでなく、軍事用レーダーにも使われており、第2次大戦中、米軍爆撃機に装備された高感度レーダーは、ナチスドイツ軍との戦いで大活躍した。しかし、その後、米軍のレーダー操作員の間で白内障、白血病、脳腫瘍などの健康被害が続出して、問題になっている。
また、冷戦中、旧ソ連によるアメリカへの"秘密攻撃"にマイクロ波が使われたという話もある。70年代に在モスクワ米国大使館の職員の多くが目の障害や脳腫瘍などの健康被害を訴えたが、これがソ連側の仕業だったことが、後でわかった。ソ連はその10年以上前から米国大使館近くに3本のアンテナを設置し、マイクロ波を照射し続けたというのだ。ところが、この電磁波の強さがアメリカの国内基準値以下だったため、アメリカ政府はソ連に抗議できなかった、という笑うに笑えないオチまでついている。まるで映画のような話だが、これは微弱なマイクロ波でも長期間にわたって曝露すると、健康被害を受ける可能性があることを示している。
こうした経緯を踏まえて、イギリス政府は05年1月、「16歳以下の子供の緊急時以外の子供の携帯使用を控え、10歳以下の子供の使用を禁止すべき」という勧告を出した。現在では、他にフランス、ドイツ、フィンランド、イスラエルなどが子供の携帯使用を制限・禁止する勧告を出している。
また、08年7月には、全米屈指の研究機関であるピッツバーグ大学がん研究所が、約3000人の職員に、携帯電話の使用をできるだけ控えるよう、異例の勧告を行った。その2ヵ月後には、連邦議会下院で初めて携帯電話の健康影響に関する公聴会が開かれている。
にもかかわらず、WHOがインターフォン研究の結果に基づき、いち早く携帯電磁波のリスクについて「警告」することができなかったのは、なぜなのか?
カナダで電磁波の健康影響問題を長年研究しているトレント大学環境資源学部のマグダ・ハバス准教授は、こう推測する。
「おそらく研究グループのなかで、調査結果をすべて発表すべきという人と、一部だけにすべきという人の間で激しい議論があったのではないか。ただ、その場合でも、多数派と少数派の意見を一緒に発表するのが普通です。しかし、インターフォン研究は少数派の意見を"付録"に追いやった。これでは、携帯電話の脳腫瘍リスクを意図的に小さく見せようとしたと思われても仕方ないでしょう」
今回、WHOが新たな見解を出した背景には、作業グループの研究者たちの力関係が変わったこともあるのではないかと推察される。つまり、携帯電磁波に「健康影響がある」とする研究者の数(力)が、「健康影響はない」と主張する研究者のそれを上回ったということだ。
私は、携帯電磁波の取材を続けるなかで、なぜ研究者の間でこんなにも主張が異なるのか、ずっと訝しんできた。その結果、わかったことがある。
一つは「健康影響はない」とする人の多くは、主に10年以下の短期使用者を対象にした調査をもとにしているのに対して、「健康影響がある」とする研究者の多くは長期使用者、ヘビーユーザーなどを多く含む調査をもとにしていることが多い、ということ。脳腫瘍などは発症までの期間が10年から20年ぐらいと長いため、短期使用者の調査では、あまり変化がみられない可能性があるのだ。
もう一つは、「研究資金」がどこから出ているかによって、その調査結果が変わり得る、ということだ。
研究資金の出所
ワシントン大学のヘンリー・ライ博士は06年、「携帯電磁波の健康影響に関する調査結果と資金提供の関係」に関する報告書を発表した。それによると、携帯電話業界から資金提供を受けた調査では、「携帯電話使用と健康影響の関連はみられなかった」としたものが71.9%で、「関連がみられた」(28.1%)としたものを大きく上回った。ところが業界から資金提供を受けない調査では、「関連がみられた」が67%、「みられなかった」が33%と、なんと、その割合が逆転するのだ。
実際、ライ博士は95年に、「ラットの脳細胞にマイクロ波を照射すると、脳腫瘍で見られるように、遺伝子を構成するDNAが傷つけられる」という内容の論文を発表したところ、研究資金を打ち切られ、携帯電磁波の健康への影響の研究から電磁波の医学的応用など他の研究にシフトせざるを得なくなったという。ライ博士は、携帯電磁波の研究が一筋縄ではいかないことを、身をもって思い知らされたのである。
「携帯電話と脳腫瘍 懸念すべき15の理由」という報告書を発表した米国人研究者ロイド・モーガン氏も、業界から多額の資金提供を受けた研究調査では、健康影響を示すデータを過小評価したり、"統計的に有意性がない"などと最終的な結論から省くことは「あり得る」と指摘している。
実は、インターフォン研究の資金も総額1920万ユーロ(約22億円)の約29%が携帯電話関連業界から提供されたことがわかっている。モーガン氏はこう懸念する。
「IARCは第三者機関への寄付を間接的に受け取った、と説明しています。しかし、業界から直接受け取らなくても、研究者たちはどこからお金が出たのかは知っている。お金を出した人たちを困らせるようなことはできるだけ避けたいと考えても不思議ではない」
私は、インターフォン研究の統括責任者にメールで取材を申し込んだが、それに対する返事はなかった。
日本ではこれまで携帯電磁波の健康影響に関する議論や報道があまり行われてこなかったため、「携帯電話は安全だ」と無条件に信じている人が多いように思う。しかし、携帯電話の安全性が未だに証明されていないということは、きちんと認識すべきだろう。
アメリカで、FDA(食品医薬品局)により携帯電話の販売が認可されたのは84年。医薬品や医療関連機器などを認可するFDAは、通常、開発したメーカーに臨床試験などを義務づけ、もし有害性が認められれば不認可となる。ところが、携帯電話に関してはこのプロセスがまったく行われなかった。巨大な影響力を持つ携帯業界が、「携帯電話は電子レンジとほぼ同じ周波数帯のマイクロ波を使っているが、電子レンジよりはるかに少量の熱量しか発していない。だから人体組織が加熱されることはなく、健康への影響は心配ない」とFDAを説得したからだと言われている。
しかし、電磁波が外部へ漏れない電子レンジと異なり、携帯電話は頭に押し当てたり、体の近くに持ったりしているため、利用者は常に電磁波に晒されていることになる。これまで人類が開発した家電製品のなかで、携帯電話は特異な存在なのである。
だから今回、WHOが遅ればせながらも「発がんの可能性」を示したことには、大きな意味がある。イヤホンマイクを使うなどの安全対策については、拙著『携帯電磁波の人体影響』(集英社新書)を参照していただきたいが、これが日本人の携帯電話のリスクに対する意識を高めるきっかけになることを期待したい。
ジャーナリスト 矢部武
(『週刊新潮』 2011年6月16日号)